ナンパの終わりはいつか。華麗なるギャッツビーとウルフ・オブ・ウォールストリートを見て。

「華麗なるギャッツビー」と「ウルフ・オブ・ウォールストリート」を見た。両方ともレオナルド・ディカプリオ主演で、華やかしころのアメリカで成り上がった1人の男を描いたものだが、女性関係を見たときに、両者の生き様は全く異なっていて面白い。

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「華麗なるギャッツビー」は、1920年代の輝かしい時代のニューヨークが舞台だ。主人公であるジェイ・ギャッツビーは、過去に愛した一人の女を取り戻すために、豪華な城のような豪邸を造ったり、華やかなパーティーを開いたり、やれる限りのことを尽くす。しかしながら、ギャッツビーはその愛する女の罪を着たまま、最後は殺されてしまうと同時に女はギャッツビーの元を去ってしまう。

ギャッツビーは、恋愛工学で言うところの非モテコミット、ザ・ゲームでいうところのオンリーワン中毒に陥ってしまっていると言えるだろう。
一方、「ウルフ・オブ・ウォールストリート」では、1980〜90年代のウォールストリートを舞台に、主人公のジョーダン・ベルフォートが金と女と薬まみれの人生を送り、色んな女とセックスしまくる日常が描かれている。
ベルフォートは、恋愛工学で言うところのプレイヤーであり、ザ・ゲームでいうところのPUA(ピックアップアーティスト)なのだろう。
恋愛工学的には「プレイヤーたれ」、あるいは、ザ・ゲーム的には「PUAたれ」というのが真なのだろう。
でも、一人の女性を愛し続けるのも、色々な女性と遊び続けるのも、それぞれの生き方しだいだと思う。深く考えたときに、自分の人生を全うしたと言えるのはどのような生き方なんだろうか。
「ウルフ・オブ・ウォールストリート」のような女遊びをしまくる人生なのか。それとも、「華麗なるギャッツビー」のようにオンリーワンを愛する人生なのか。
女性と遊ぶことについて、僕自身は、自己承認欲求を満たすためがきっかけだった。その後、自己承認欲求から趣味の領域に入っていって、それは単なる遊びになった。
でも、今は違う。多少趣味的な要素があるかもしれないが、アラサーとなった今は、マインドが大きく変わった。
これまでのように、言ってしまえば、女性の数を求めて競っているわけではなく、オンリーワンの存在を探して恋愛活動をしているのだと思う。
そして、オンリーワンの存在が見つかるその日まではこの活動が終わることはないのだろう。

ウルフ・オブ・ウォールストリート (字幕版)

ウルフ・オブ・ウォールストリート (字幕版)

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