コミュニケーションとしての「広義のナンパ」

初めて会った女性とこんなに簡単に関係を持てるのか。世界が変わったと思ったのは数年前である。
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これはたぶんナンパによる「脳内麻薬」のようなもので、一度経験すると忘れられないものだと思う。酒や煙草と同じで依存性があるものだ。

この「脳内麻薬」が強く効く人は「狭義のナンパ」を延々と続けられるのかもしれない。

私がここでいう「狭義のナンパ」とは、おそらく一般に想像されるとおり女性を誘惑して男女の関係を持つことである。それは、道端で繰り広げられることもあるし、パーティーのような場所での出会いをきっかけに訪れることもある。

「脳内麻薬」が強くない人は、素敵な彼女ができたらナンパを止めるのかもしれない。しかし、その彼女と別れたらどうするのだろうか。「脳内麻薬」が強くない人でも、別れたらナンパを再開するのかもしれない。

翻って自分のことを考えてみる。

「脳内麻薬としてのナンパ」の継続期間はかなり短かった。たぶん20人くらいで既に飽きが生じており、むしろ、虚しさ(結局、女性は彼氏がいてもよく分からない男に体を許すという事実)を感じるとともに、なぜ、当日出会った相手と一晩ともに過ごすことを躊躇しないのかという女性心理に対する疑問が生じてきた。

1年くらい前、渋谷の駅前で出会った女性と30分くらいで関係を持ったとき、仙台の路上で出会った女性とも数十分で関係を持ったとき(業界用語ではいわゆる弾丸即というのかもしれない)、その女性たちの心理をあまり理解できなかった。

そのとき私は金を持っておらず、結果として女性に奢られる形になったし、10歳も年下の女性から「なんでこんなおじさんに抱かれるんだろう」とも言われた。そんなことを言いながら抱かれる女性の心理が理解できなかった。

ときを同じくして、海外に何回か行った。英語があまり通じていなかった。つまり言語面での意思疎通はできていない。それでも男女の関係になることがある。よく知らない、いずれいなくなる日本人と、金銭の媒介なしに一晩をともにする女性の心理がよく分からなかった。

かような経験をするにつれて、ナンパによって男女の関係になることについて、社会的な文脈から事象を考察するようになってきた。明確な答えはまだ出ていないが、今はそういう視点で物事を考えることが多くなった。

これが「広義のナンパ」に通じるなのだな、とふと感じている。得たいものは、男女の肉体的関係を結ぶこと自体ではなく、その背景にあるものを解明することである。果たして、人種や文化、宗教など社会的背景の違いから、ナンパという事象の背景は異なるのだろうか。

つまり、「広義のナンパ」の目的は、ある場所にいる人々の心理を知ることであり、そのために、背景にある街の文化や思想を知ることである。大上段に言うと、文化や人間性を知るための「コミュニケーションとしてのナンパ」である。

「狭義のナンパ」では抱く気があるかないかで明らかに声かけの対象を選別しているが、「広義のナンパ」はその気がなくても声をかけるものであり、声かけ対象は無限である。

何か自分の興味をひかれる事象を起こしたり、あるいはそのような潜在性を持っている対象であれば、誰でもいい。極論を言えば、おじさんでもいい。

「狭義のナンパ」のみを目的としている立場の人からすると、かような感覚には違和感があるかもしれない。「狭義のナンパ」のみを目的としているのであれば、明らかに声をかけない対象にも声をかけることになるからだ。

ただ、「広義のナンパ」には当然のことながら「狭義のナンパ」に分類される行為も含まれる。

対象者が魅力的な女性であれば、関係を持ちたいと思うのは正直な男としての感覚だ。

また、「狭義のナンパ」を否定したいわけではないし、それを主眼とするのは、健康な男性のメンタリティであり、我々は、生物本来の本質的な欲求を否定することは決してできないだろう。

ただ、自分について考えると、「狭義のナンパ」に対する熱量が明らかに低下している。それは「広義のナンパ」のために感覚を向けるようになったからだと思う。

以前は、終電まで仕事、その後にクラブで朝までのような典型的な「狭義のナンパ」を毎週末やっていたが、今はもうそのバイタリティはない。

「狭義のナンパ」に従事した場合、今はテンションを維持できるのは、おそらく最大5時間くらいで、基本的には3時間くらいだろう。

「狭義のナンパ」は、ハイパフォーマンスで女性を魅了するための行為をし続けなくてはならず、その消費するエネルギー量は甚大だ。

ナンパ師の人達が、連日連夜活動できるのは純粋にバイタリティの高さを想像する。今の私にはそれだけの余裕もなければ、エネルギーもない。

一方で、「広義のナンパ」は全体的なエネルギーの放出を緩く長く続けるイメージである。別に相手を魅了しようと思ってやっているわけではないので、変に気負うこともないし、自然体で行うことができる。

ただし、自分を解放することは必須だ。言い換えると自分を常にオープン状態にすることが必要ということかもしれない。「広義のナンパ」は少し脱力して、全体的にオープンにエネルギーを流し続けるイメージである。

「広義のナンパ」。今年の途中から明らかにそのような方向性にシフトしていた。

人種や文化、様々な社会的文脈が異なる相手と対峙して、その心理(「真理」と言った方がいいかもしれない)を解明できるまでは、おそらく「コミュニケーションとしてのナンパ」を止めることはないのだろう。

それは、生理的欲求に起因する狭義のナンパではなく、紛れもなく、知的欲求に起因する広義のナンパなのである。

今後は「探求者」としての道を歩むことも考えたい。
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